4年前(2021年)の4月25日に北見での生活が始まりました。女満別空港から出たところにある気温計が「0度」を示しており、雪がぱらついていた光景が今でもまざまざと浮かんできます。三鷹の自宅は17度でしたから、震えながらホテルに向かったのでした。北見での家はまだ家財が揃っておらず、数日のホテル暮らしから始まりました。というわけで、4月25日は「移住記念日」であります。
コロナが移住を決意させた
急遽移住を決めたのは、当時90歳の一人暮らしの義父に寄り添いたいと思ったからでした。
ずっと気にしながらも仕事を優先して、先送りしていたことへの後ろめたさを抱えていたんですよ。
新型コロナウイルスの猛威で、仕事がすべてオンラインに変わる流れが押し寄せました。御多分に漏れず私も、会議はもちろん研修もオンラインでできる環境を大急ぎで整えました。
しばらくは、淡々と事態を受け止めて、オンライン生活に馴染もうと頑張っていたわけなんですが、しばらくして私に強烈に電流が走りましてね。もちろん感電したわけではなくて、強烈なる思いが浮かんだ、ということですよ。「今こそ義父の元に行くチャンスではないか」と・・。だって、東京の事務所に居たって結局はオンライン。どこにいてもいいよね、ってわけです。
そう思いついてからは、自分でも不思議なぐらい体と心が動いたんですよ。
すぐに妻に話をしました。
あまりにも唐突な話に、戸惑いは隠せないようで即決はできなかったんですが、私の意思が固いと見たようで結局は同意してくれました。
「コロナが収束したら、リアルに戻って仕事に困るのでは?」という不安はチラリとよぎりましたが、このチャンスを逃すと大きな後悔をするような気がして、「なるようになるだろう」と腹を括ったわけです。
目的は達成されたのか
丸4年経った現時点の結論は「移住してよかった」以外ありません。
もっと言うと「移住していなかったらどうなっていたんだろう」とさえ思っております。
《単身で移住する羽目に》
発達障害の娘は、どんな小さな変化でもなかなか受け入れられない特性がありまして、これまでの数回の引っ越しも難儀していました。今回の北見への移住はこれまでの引っ越しとは比べ物にならない、スーパー引っ越しなので、娘が受け入れられないのではないかと、それが一番の心配事項だったんです。
ところが、今回は不思議と抵抗があまりなく、当初スムーズに話が進み、三鷹の自宅の売却にも動き出すまで話が進んだわけなんですが、その後どんでん返しがやってくるとは・・・。自分の考えが甘かったと思い知らされることになりました。
三鷹の売却活動も進行中で、さて引っ越しの段取りだと考えていた矢先、娘から衝撃の一言が発せられました。
「私は行かない」と。娘の一人暮らしは考えられないので、この一言は移住の断念を意味します。
移住を取りやめ、三鷹のマンションの売却を止めて、何事も無かったことにできなくはなかったと思うのですが、この機を逃してはならないという私の心は、次のような台詞を言わせていました。
「分かった。まずは自分一人で行く」
《義父との絆》
同居する気満々だったのですが、「それは勘弁してくれ」との義父の意向で、すぐに駆け付けられる、頻繁に行ける近くの住居ということで北見の今の自宅を決めたわけです。義母が亡くなって、一人暮らしにも慣れ、まだまだ元気でしたからその状態を続けたいという義父の気持ちも十分理解できました。
平日は仕事もありましたから、週末義父の住む実家に通う生活が始まりました。
楽しかったです。
二人で隣町までドライブして、お蕎麦のランチを食べて、スーパーで買い物をして、帰ってくる。
頃合いを見て、自分は北見の自宅に戻る、という繰り返し。
温泉や、近場の観光地へのドライブなど、色々提案もしたんですが、NG。
毎回、同じことの繰り返しが楽しかったようでした。
スーパーの買い物の際には「これはお前も食べるか?」と一々聞いてくれて、二人分買ってくれるのが常でした。
クリスマスや、誕生日など、節目の時にはケーキを買い、飾りつけをして二人でお祝いをしました。
「こんなことは初めてだ」と言って、とても楽しそうにしていました。
ドライブの間は「ごっこ遊び」が大うけでした。
「ごっこ遊び」というのは、ドライブの間、役を演じるというものです。
例えば「会長と秘書」、「親分と子分」、「王様と召使い」等々。
車のドアを開けて「会長お乗りください」。目的地に着いたら、助手席に回ってドアを開けて「会長着きました」とやるわけです。
これは義父に大いにうけました。
たった一年間の単身移住期間に、義父との絆は急速に深まっていきました。
一年目が終わる頃に、娘の気持ちにも変化が出たのか「北見に行く」と言い出し、妻と娘が合流しました。
そこから一年経って、運命の日がやってきます。
《運命の日》
ある日、毎朝の定期連絡に義父が出てきません。
「これは何かあったに違いない」と、妻と一緒に車で駆けつけて鍵を開けると、倒れた際に動き回ったのか居間が泥棒でも入ったようにめちゃくちゃになっており、義父があおむけに倒れているではありませんか。
すぐさま救急車を呼びましたが、「脳梗塞」と判明。
残念ながら左半身に麻痺がありましたが、一命は取り止めました。
後から思えば、前の晩の定期連絡の時に、体調があまりよろしくない様子だったようなので、その時から兆候があったのかもしれません。前の晩に察知して駆けつけていたら、もっと軽く済んだのではと思いますが、こればかりは言っても仕方がありません。
その後、リハビリ病院に転院し、期限が来て現在の特別養護老人ホーム「くつろぎ」へと至るわけです。
私が出張の時には妻一人になりますが、いずれにしても「毎日通う」ことに決めました。
義父を元気づけることと、リハビリ病院で「これ以上は無理」と言われたものの諦め切れなかった、独自の「発話のリハビリ」をするためです。独自のリハビリと言っても専門スキルはないので、たくさん話して、たくさん話してもらう、というだけのことなんですけどね。
これは、とてもよかったと思っています。
一生懸命話しているうちに、聴き取れる言葉が増えてきて、何とか意思疎通ができるようになってきていました。
というわけで、現時点において、移住を決意してよかったと心から思っています。
親族との一体感
「副産物」という言葉を使ってしまうと、関係者に申し訳ないのですが、もうひとつ移住してよかったなと思うことがあります。それは義父の妹さんなど関係者の皆さんとの関係が深くなったこと。そして二人の妹家族の皆さんとの一体感が生まれたことです。
《義父の妹さん訪問》
東京にいる頃は、疎遠とまでは言いませんが、正直のところ連絡もあまり熱心ではなかったんですね。
気持ちはあったんですが、これまた仕事優先の人生になってしまってたんですね。
妻が合流してからですが、実家に寄った際にはなるべく、近くに住む義父の妹さん(やはり一人暮らし)のお宅に寄るようにしていました。「いつも寄ってくれてありがとう」ととても喜んでくださいました。
義父が施設に入ってからは頻繁には難しくなりましたが、実家の様子を見に行くような際には寄って、義父の様子を伝えるようにしています。
この交流はとても心温まるもので、楽しみの一つになりました。
《兄弟(姉妹)の一体感》
立場上、我が家が連絡のハブのような存在になって義父と向き合うことになりました。
妻が頻繁に二人の妹さんたちと連絡を取ってくれていまして、義父のところに行った際には、妹家族の様子を伝えるのが日課になりました。義父は笑ったり、うなづいたり、いつも熱心に聴いてくれました。
妹家族などの情報の中で、大切なこと(来訪日程情報等)は文字に残して確認できるようにと、ホワイトボードでの「友吉っつぁんへの伝言板」を始めました。
とても親切な介護士さん、看護師さんばかりで、しょっちゅう伝言板を読んで義父に聞かせてくれていると聞きました。本当にありがたいことです。
年に二回ぐらい、二人の妹家族と我々が一緒に義父の元に集まって、その夜に食事を一緒にすることが恒例になりました。皆さんがこの場をとても楽しみにしてくれているようなんですが、自分も大切な年中行事として楽しみにしています。
こうして義父の元に集まることを通じて、期せずして兄弟(姉妹)の一体感が生まれていることをとても嬉しく思っています。皆の思いは一つです。「友吉っつぁんに一日でも長く生きていてほしい」という気持ちです。
この気持ちが義父本人にも伝わり、生きる力となって長生きしてくれるように心から願っています。
※この他、ご近所さんとの「交流」のこと、札幌での新しい「仕事」のこと、自分自身の「生活」のこと、「趣味」のこと等々、4年間の思い出は山ほどあるのですが、あまりにも長くなるので、記念日投稿としてはこれぐらいにしておこうと思います。
5年目もここ北見で頑張っていきます(生きます)。
皆さん、応援よろしくお願いします。
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