じたばたしない

新年を迎えました。旧年2025年の一番のBIG NEWSは、「6月の義父の旅立ち」で決まりだと思っていたんですけどね。年末まで3ヶ月を切った10月に入って、予期せぬ緊急入院、長期入院という罠が待っていました。病気の方は、年をまたいで長期戦の様相ですので、BIG NEWSの1位は「病気」、2位が「義父の旅立ち」ということになりますね。病気は、くよくよしていてもよくなることはありませんので、新年の抱負的キーワードは「じたばたしない」に決定です。

レジリエンスの2つの質問

心理学に「レジリエンス」という言葉がありますね。
「困難やストレスに直面した際に、しなやかに適応し、そこから立ち直り、成長する力」が定義なんですが、何々力として表すと「精神的回復力」「抵抗力」「復元力」「耐久力」「再起力」という言葉になるらしいです。
好きな言葉です。
私の仕事である、組織の運営や変革上も大事なんで、よく登場することばなんですが、個人的にもとても大切にしている概念です。

個人的に、何か大きな失敗をしたり、とても厳しい状況に直面した後に自分にしている質問が二つあるんですよ。
ひとつは「もう一回やり直せるとしたらどうするか?」
二つ目は「今回の失敗(出来事)に意味があるとしたら、それは何か?」
です。


「もう一回やり直せるとしたらどうするか?」と問いかけるのは、大きな失敗をした時に、悔しがって終わったり、反省して終わるのではなくて、また同じような失敗をしないように、同じような事態になった時にもっと上手に乗り切れるように、自分の中に新たなノウハウを蓄積したいと思うからです。

「今回の失敗(出来事)に意味があるとしたら、それは何か?」と問いかけるのは、これまで半世紀近くもビジネスをしてきて、成功よりも失敗からの方が学びが多いことを体験的に分かっているんですが、これもまた反省するだけではなく、概念化(文字化)しておかないと、今後の役には立たないんですよね。

昨年、病気になったことについて、この二つの質問を投げかけてみました。

もう一回やり直せるとしたらどうするか?

今回の場合は、この質問への答えは困りました。
今回罹った病気の名前は「免疫性血小板減少症」と言って、指定難病なんだそうです。
「難病」というのは、よく聞くんですが、まさか自分が罹るとは夢にも思っていなかったので、正確に知らなかったんですが、今回よく分かりました。

■定義
指定難病とは「難病の患者に対する医療等に関する法律(難病法)」に基づき、国が定めた要件を満たし、医療費助成の対象となる病気のこと」

■指定難病の要件
指定難病として認められるためには、以下のすべての要件を満たす必要があります。 

当該疾病により長期にわたり療養を必要とすること。
発病の機構(原因)が明らかでないこと。
治療方法が確立していないこと。
国内の患者数が一定の人数(人口の約0.1%程度)に達しないこと(希少性)。
客観的な診断基準が確立している、またはそれに準ずるものがあること。

指定難病の「要件」をあらためて見ると、落ち込んじゃいますね。
身も蓋もないというか、「原因不明」で「治療法が未確立」で「長期療養」が必要と聞いたら、絶望しちゃいます。
10月9日に緊急入院するに当たって、病気の説明を聞いた時には実際愕然としましたからね。

で、第一の質問の「もう一回やり直せるとしたらどうするか?」について考えてみたんですが、何しろ『原因が明らかではない』病気だってんですから、罹患の前に時計を巻き戻して対策を考えようにも、どうにもならないですね。
仕事上の失敗については、この質問にはたいがい答えがあって、次に同じ失敗をしないようにするノウハウがけっこう身についたですが、今回「こういう答えのない事態もあるんだな」としみじみ思いました。

ただ、「“免疫性血小板減少症”にならないために、もう一回やり直せるとしたらどうするか?」という直接的な答えはみつからないのですが、これをきっかけに考えたことはあります。

体調がよくない系のことで、医療的に原因が特定できない時に、よく言われるのが「ストレス」と「加齢」の二つですよね。もし仮に今回の原因が「ストレス」と「加齢」にあるとしたら、その自覚はありますね。
移住してからの4年半は、自分の自覚以上に恐らく「ストレス」は溜まっていたと思うし、「疲労」も相当蓄積されていたとは思うんですよね。
義父に寄り添うための移住だったんですが、仕事もこれまでと変わらない感じでやってましたからね。
リモート環境も整えたんですが、首都圏のお客様からのご要望もあって、ピーク時は月の半分は出張していました。


仕事をしながら、義父が元気な頃は、毎週末に実家に通い、脳梗塞で倒れて完全介護の老人ホームにお世話になってからは、毎日(出張時除く)通っていましたから、その時には気を張っていたので感じてはいなかったのですが、知らず知らず溜まっていた疲労もあったんだろうと思います。

で、結論なんですが、もう一回移住の決断した時に戻ってやり直せるとしたら『「仕事を完全に止めて(引退して)」義父への寄り添い以外のことはしないと決めて移住する』ですね。

自分のこれまでを振り返ると、どうしても「頑張り過ぎてしまう」。
何事にも全力投球で、やれる方法がある限り、やりたいことを全部やる、という姿勢になっちゃうんですよね。

というわけで、今年(2026年)からは、『頑張り過ぎない』という方針でいこうと思います。
ただ、そうすると活動内容を相当絞らないといけないんですが、果たしてそれができるかどうか・・・。
体調が戻ったら「あれもやりたい」「これもやりたい」と、沸々と湧き上がってきているのですが・・。
さてさて、どうしたものか。

今回の失敗(出来事)の3つの意味

二つ目の問いは「今回の失敗に意味があるとしたら、それは何か?」でした。
今回病気になったことは「失敗」と言えるのかどうかわからないので「出来事」と読み替えて考えてみましたが、3つありました。
1.「健康」の定義を考え直した
2.「試されている」という人生の姿勢を再確認した
3.今後の自分を再定義する機会になった

私の入院に際して、ある友だちが、「健康」の定義について、素晴らしい考え方を教えてくれました。
また、別の友達は「試されている」という、苦境に直面した時に自分が大切にしていた言葉を思い出させてくれました。
この二つについて、個別に書いてみます。
3.の今後の自分の再定義については、次のブログに回します。

「健康」とは?

10月9日から、結局20日間入院することになったのですが、私を元気づけようと、大切な友人の一人が「健康」の定義について、とてもいい話を教えてくれました。

だいぶ前の話らしいのですが、その友人が恩師から「健康の定義を言えるか?」と聞かれたらしいんですね。
その後のやり取りは、以下のようなものだったというんです。
友「病気じゃない人」
恩「ほんとにそうか?自分はそうは思わん。だとしたら、入院している人はみんな健康じゃないってことになっちまうだろ」
友「え、そーじゃないんですか?」
恩「病院行ってみなよ。パジャマ着てウロウロしながら、看護師にちょっかい出してるオヤジがいたりする。山手線で通勤してるサラリーマンよりよっぽど健康そうだぞ」
友「じゃあ先生の“健康の定義”を教えてくださいよ」
恩「健康の定義は二つ。一つ目は周囲を気遣えること。自分のことばっかり考えてるんじゃなくて、周りを気遣えるか・・。二つ目は、明日が今日よりも良くなると信じられること」

その友人からのメッセージには、このエピソードの後、「まずは病気と健康を別物にすることから行きましょう」と書いてくれていました。
なるほどなあ。
北見日赤病院の病室で、彼からのメッセージをうなづきながら、読ませてもらいました。
彼のおかげで、「健康に」入院生活を送ることができました。

「試されている」

もう一人の友人は、「自分が指定難病に罹るとは夢にも思わなかった」と嘆く私に対して、次のようにメッセージをくれました。

「こういう状況を乗り越える時の誠一さんの決め言葉が私には浮かんでいます。あれです」

指定難病で緊急入院して、大量の点滴に繋がれて落ち込んでいる自分には、友人のメッセージの「あれ」が、情けないことに思い浮かばないのです。

「あれ」という私の『決め言葉』というのは「試されている」という言葉だったんです。

研修の講義や、講演などでよく話しているのですが、これまでのビジネス生活で乗り越えるために根性が必要だった窮地を経験してきました。
経験が少ない時には、正直あたふたしていたのですが、そうした事態に直面した時にある言葉が頭に浮かぶようになりました。それが「試されている」という言葉だったんです。
・栄転とは思えない子会社への出向を命じられた時
・リクルート事件で株式の責任者だった時
・バブルの崩壊の倒産の危機で、リストラの実行隊長になった時
・独立起業後の何度かの倒産の危機の時
その他、何十回(何百回までは無かったと思うんですが)と、「試されている」と頭に浮かぶ局面にぶつかりました。

では、そういう困った次回に直面した時に、いったい自分は「誰に」試されていると思ったのか?
まずもって、自分を取り巻く自分をよく知っている全ての人からです。
仕事上の困った局面、「試されている」事態というのは、だいたいが身の回りのたくさんの人の注視の元なんですよね。「さあ、あの今野は、この事態にどう向き合うんだろうか?」「どうやって乗り越えるのだろうか?」と見られていると考えると、逃げ出すことはできませんし、そうした皆さんに恥ずかしい仕事はできないと思いますよね。

もうひとつは「神様(仏様)」から見られている、という感覚ですね。
小さい頃から「お天道様は見ている」とか「お天道様はお見通しだ」と言われて育ってきました。
子供の頃は、よく意味が分からなくて、大人になってから「誰も見ていなくても、空の太陽(お天道様)や神仏はあなたの全ての行いを見ているから、正直に生きなさい、悪いことはしてはいけない、恥ずかしいことはするな」という、自己の内面に誠実さの基準を持ちなさいという教えだと分かりましたよね。

何しろ仕事人間なので、「試されている」という言葉は、仕事上の窮状の時を対象とした言葉になっていて、今回の病気のようなプライベートなことではスイッチが入るようになっていなかったんですね。

友人からの「こういう状況を乗り越える時の誠一さんの決め言葉が私には浮かんでいます。あれです」のメッセージで、今回の指定難病の罹患についても「試されている」という言葉を思い出すことができました。
友人にはとても感謝しています。

緊急入院時の検査と、大量点滴の頃は途方に暮れていたのですが、途中から「試されている」という言葉を念頭に「じたばたしない」で、病気をまっすぐに受け入れて、焦らず、できることに淡々と取り組んでいこうと思えるようになりました。

そして、「病気を治して、また元のように元気に働けるようになろう」という、「元に戻る」という考え方ではなくて、「ここでこの病気になったのには、きっと意味がある」「これを機会に元に戻るのではなくて、新しい自分としてさらにいい人生を生きると決めよう」と考えました。

それが、「今回の出来事に意味があるとしたら」の三つ目の「3.今後の自分を再定義する機会になった」です。

長くなったので、今回はここまでにして、次のブログに送ることにします。

〈講演で使っている「試されている!」のスライドです〉

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